このサイトをブックマークした、と知らせてくださる方が複数いらして、とても感激している。この場を借りて御礼申し上げます、本当にありがとうございます。更新ペースなど、まだ不定期なところ、不慣れなことも多いのですが、末長くお付き合いいただけましたら幸いです。
さて。
かれこれ5年にわたって、noteでエッセイとか小説、そのほか思いついたことなどを描き続けて、色んな出会いがあったのはまさに奇跡だった。
ただ、迎合というのとは違う(と信じたい)けれど、noteに合う内容、を探すようになってしまったような気がする。文体も、note用になっているようだと気づいてびっくりした。一つの箱の中にいると、自然と「顔」のようなものができてしまうものらしい。まるで親の前で良い子を演じ、格好つけてしまうような。
ここでは少し伸び伸びして、上手に書こうとか考えずに、流れるように綴っていけたらいいなと思う。日記というほどはくだけられないけれど、日記とエッセイの間くらいのものを。
先週末のこと。
角野隼人29歳。別名かてぃん。
二列目、という奇跡的なくじ運により、シンセサイザーのダイアルを回しているのも、目を閉じたのも、口角が上がるのも、体と共に髪が跳ね上がるのも、観えた。バッハとかラヴェルとかドビッシーとか、坂本龍一とか角野のオリジナル曲とか、ほとんど切れ目なく編曲されている(きっと即興もある)。粉々になった茶碗が、金継ぎで見事に、別の茶碗に蘇るような。
そう、守破離なんじゃないか、これは。
クラシック、って、作者の意図したものを再現するものだ、と読んだことがある。例えばショパンのことを考える。ショパンが曲を作った当時、ピアノはそんなに大きな音が出るものではなかったという。フォルテ(強く)とピアノ(弱く)の感覚は現代とは違うのだ、と。でもショパンは、もっと大きな音だったらいいのになあと思いながらここにフォルテ、って書き込んだりしなかったのだろうか。当時のように再現するのと、ダイナミックな音量で再現するのと、どっちがショパンに忠実なんだろう。
守、を経てきているから破も離も美しいんだ。何もないところで破っても離れても、ただの無茶苦茶にしかならない。
離の宇宙を泳ぎ続けていくであろうこの若者が眩しくて、推し、とか俗語で表現することなどできないのである。
画像はアンコール時、撮影OKと本人よりアナウンスがあったもの。


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